教え
ひたすら坐禅を行うこと(只管打坐)を通じて、悟りに近づいていくという教えです。日々の生活そのものを修行とする考え方も特徴です。
開祖の生涯
道元禅師は1200年、京都の貴族の家に生まれました。8歳で母を亡くし、世の無常を強く感じたことが、出家を志すきっかけになったと伝えられています。13歳で比叡山に登って出家しましたが、当時の仏教のあり方に疑問を抱き、山を下りて各地を巡り歩きました。24歳のとき、真の仏道を求めて中国(宋)へ渡ります。中国では、如浄(にょじょう)禅師のもとで、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」という禅の教えに出会い、深く納得しました。1227年に帰国し、京都に興聖寺を開いた後、43歳のころ越前(現在の福井県)に移り、後に永平寺となる寺を開きます。1231年から亡くなる1253年まで、生涯をかけて仏教思想書「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を執筆しました。
なぜ道元禅師の時代、中国で禅が盛んだったのか
道元禅師が中国に渡った時代、禅は仏教の主流として大きな力を持っていました。その背景には、845年、唐の武宗によって行われた大規模な仏教弾圧「会昌の廃仏」があります。4600以上の寺院が廃止され、26万人を超える僧侶・尼僧が還俗させられるという大弾圧でしたが、もともと寺院や経典、財産にあまり依存せず、坐禅という実践そのものを重んじていた禅は、この打撃を比較的受けにくく、その後の宋代に仏教の主流となっていきました。道元禅師が中国に渡ったのは、まさにこうした時代を経た、禅が力強く息づいていた時期のことでした。
大本山・永平寺について
福井県の深い山あいにある永平寺は、道元禅師が1244年に開かれた、今も現役で使われている修行道場です。約33万平方メートルの広大な敷地に、70あまりの建物が立ち並び、そのうち19棟が国の重要文化財に指定されています。中でも「七堂伽藍」と呼ばれる7つの建物は、修行僧が日々の生活そのものを修行として過ごすための、重要な場所です。見どころの一つ、傘松閣(さんしょうかく)には、156畳もの広さの「絵天井の間」があり、著名な画家144名による230枚もの美しい天井画で覆われています。今も100人を超える修行僧(雲水)が日々厳しい修行に励んでおり、一般の参拝者も、その凛とした空気を肌で感じることができます。

